ウィーン体制(ういーんたいせい)
最終更新:2026/4/19
ウィーン体制は、ナポレオン戦争後のヨーロッパにおいて、ウィーン会議を契機に成立した、保守主義と勢力均衡に基づく国際政治体制である。
ポイント
ウィーン体制は、フランス革命とナポレオン戦争によって揺るがされたヨーロッパの秩序を再建するため、列強が結んだ一連の協定によって支えられた。自由主義やナショナリズムの動きを抑圧する側面もあった。
ウィーン体制の成立
1814年から1815年にかけて開かれたウィーン会議を基盤として成立したウィーン体制は、ナポレオン戦争後のヨーロッパにおける国際秩序を指す。会議の中心となったのは、オーストリアの外相メッテルニヒであり、彼はヨーロッパの安定を最優先に考え、フランス革命とナポレオン戦争によって崩壊した旧体制の復古を目指した。
ウィーン体制の基本的な原則は、正統主義、勢力均衡、そして干渉主義の3つである。正統主義とは、フランス革命以前の王朝や領土を可能な限り復活させるという考え方であり、フランスのブルボン朝の復古はその典型例である。勢力均衡とは、ヨーロッパの大国間の力を均衡させ、特定の国が覇権を握ることを防ぐという考え方であり、領土の再編や新たな国の設立を通じて実現が図られた。干渉主義とは、革命や反乱が起こった国に対して、大国が介入し、現状を維持するという考え方であり、自由主義やナショナリズムの運動を抑圧するために用いられた。
ウィーン体制下のヨーロッパ
ウィーン体制下では、ヨーロッパ各国は聖同盟(ロシア、オーストリア、プロイセン)や四国同盟(イギリス、オーストリア、ロシア、プロイセン)といった国際協調体制を構築し、ヨーロッパの平和と安定を維持しようとした。しかし、自由主義やナショナリズムの運動は、ウィーン体制下においても各地で活発に展開された。1820年代のスペインでの自由主義革命、1830年のフランス七月革命、そして1848年のヨーロッパ各地での革命運動は、ウィーン体制の脆弱性を示す出来事であった。
ウィーン体制の崩壊
クリミア戦争(1853-1856年)を契機に、ウィーン体制は徐々に崩壊に向かう。ロシアとイギリス、フランス、オスマン帝国の対立は、ヨーロッパの勢力均衡を崩し、国際協調体制に亀裂を生じさせた。また、イタリア統一(1861年)とドイツ統一(1871年)の進展は、ナショナリズムの台頭を象徴し、ウィーン体制の基盤を揺るがした。1878年のベルリン会議をもって、ウィーン体制は完全に崩壊し、新たな国際秩序へと移行した。
ウィーン体制は、約40年間にわたってヨーロッパの平和を維持したが、自由主義やナショナリズムの抑圧という負の側面も持っていた。その崩壊は、ヨーロッパの政治地図を大きく塗り替え、その後の国際関係に大きな影響を与えた。