岩倉使節団(いわくら しせつだん)
最終更新:2026/4/11
明治9年(1876年)から明治10年(1877年)にかけて、日本政府が欧米に派遣した大規模な使節団。
ポイント
日本の近代化を推し進めるため、欧米の政治、経済、軍事、文化などを視察し、条約改正の準備を行った。国内の政治的混乱を避けるため、副使として太政大臣も同行した。
概要
岩倉使節団は、明治9年(1876年)12月20日に横浜を出港し、明治10年(1877年)12月18日に帰国した、約1年間の大規模な使節団である。正使は岩倉具視、副使は太政大臣の木戸孝允、参使は伊藤博文、大久保利通、黒田清隆らが務めた。使節団の規模は100名を超え、官僚、学者、技術者、留学生など、多岐にわたるメンバーで構成された。
派遣の目的
岩倉使節団の派遣には、主に以下の目的があった。
- 欧米視察: 欧米の政治体制、経済システム、軍事技術、教育制度、文化などを視察し、日本の近代化に役立てる。
- 条約改正の準備: 不平等条約の改正に向け、欧米各国の情勢を把握し、交渉の準備を行う。
- 国際社会へのアピール: 日本の近代化の進展を国際社会にアピールし、国際的な地位を高める。
旅程
使節団は、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、ベルギー、オランダ、イタリア、ロシア、デンマーク、スウェーデン、オーストリア=ハンガリー帝国、スペインなどを訪問した。各国で各国政府の歓迎を受け、政治家、学者、実業家などと会見し、視察を行った。特にアメリカでは、当時の大統領であるラザフォード・ヘイズと会見し、条約改正について意見交換を行った。
使節団の影響
岩倉使節団の派遣は、日本の近代化に大きな影響を与えた。使節団の報告書は、日本の政治、経済、軍事、教育などの各分野の改革に役立てられた。また、条約改正に向けた交渉も進展し、1899年に不平等条約がすべて改正された。さらに、使節団の派遣は、日本の国際的な地位を高め、国際社会における日本の存在感を増した。
国内の状況
使節団が派遣されていた期間中、国内では西南戦争(1877年)が勃発した。このため、副使として木戸孝允が同行し、国内の政治的混乱を鎮める役割も担った。西南戦争の終結後、使節団は帰国し、その報告書は政府によって検討され、日本の近代化政策に反映された。