SPONSORED

尊王攘夷(そんのうじょうい)

最終更新:2026/4/11

天皇を尊び、外国勢力を排斥しようとする、江戸時代末期の政治思想および運動。

別名・同義語 排外主義国粋主義

ポイント

幕末の混乱期に、倒幕勢力の一部が掲げたスローガンであり、日本の独自性を守ることを目指した。しかし、その具体的な方法論は多様で、過激な行動も生じた。

尊王攘夷の成立と背景

尊王攘夷思想は、江戸時代後期に幕府の統治体制が揺らぎ、外国勢力の侵入が本格化する中で生まれた。特に、1853年のペリー来航は、日本の社会に大きな衝撃を与え、幕府の無力さを露呈した。これに対し、天皇を中心とした国家体制の再構築を求める「尊王」の思想が台頭し、同時に、外国勢力の排除を主張する「攘夷」の思想と結びついていった。

尊王攘夷の思想的展開

尊王攘夷思想は、単一の思想体系ではなく、様々な立場からの主張を含んでいた。大きく分けて、以下の3つの潮流が存在した。

  • 過激派攘夷論: 諸藩の武士や下級武士を中心に、外国勢力の根絶を最優先とし、武力による攘夷を主張した。吉田松陰や高杉晋作などが代表的な人物である。彼らは、幕府の開国政策に強く反発し、武力倒幕へと至った。
  • 温和派攘夷論: 幕府の体制を維持しつつ、外国勢力との交渉を通じて、日本の独立と尊厳を守ろうとする立場。多くの公家や一部の藩士がこれに属した。
  • 尊王論: 天皇の権威を回復し、天皇を中心とした国家体制を確立することを重視する立場。外国勢力の排除も視野に入れていたが、必ずしも武力による攘夷を主張したわけではない。

尊王攘夷運動の展開

尊王攘夷思想を背景に、各地で攘夷運動が展開された。1860年代には、長州藩や薩摩藩が中心となり、幕府の権威を揺るがす事件が相次いだ。例えば、1863年の八月十八日の政変は、長州藩が京都に兵を挙げ、公家や幕府の勢力を排除しようとした事件である。また、1864年の蛤御門の変は、長州藩が京都御所を襲撃した事件であり、幕府軍との激しい戦闘となった。

これらの攘夷運動は、幕府の権威を失墜させ、倒幕運動へと発展する大きな要因となった。しかし、攘夷運動自体は、外国勢力の圧倒的な軍事力に阻まれ、必ずしも成功を収めることはできなかった。

尊王攘夷の終焉と影響

1867年の大政奉還により、幕府は権力を天皇に返上し、明治維新へと移行した。明治政府は、攘夷政策を転換し、積極的に西洋の文化や技術を取り入れ、近代化を進めた。尊王攘夷運動は、その目的を達成することなく終焉を迎えたが、日本の近代化に大きな影響を与えた。特に、日本のナショナリズムの形成や、天皇を中心とした国家体制の確立に貢献した。

SPONSORED