デタント(でたんと)
最終更新:2026/4/11
冷戦期における米ソ間の緊張緩和。対立を前提としつつも、軍備管理交渉や首脳会談などの対話を通じて、偶発的な衝突を回避し関係の安定化を図った外交政策のこと。
別名・同義語 緊張緩和雪解け
ポイント
デタントは、核戦争の危機感を背景に、相互の安全保障を確保しつつ、政治・経済・軍事における協調を模索する試みであった。緊張緩和は、その後の国際関係に大きな影響を与えた。
デタントの背景
デタント(détente)は、フランス語で「緊張緩和」を意味する。1960年代後半から1970年代にかけて、米ソ間の冷戦構造の中で、両国が相互の安全保障を確保しつつ、政治、経済、軍事における協調を模索する政策を指す。その背景には、キューバ危機(1962年)以降、核戦争の危機が現実味を帯びたこと、ベトナム戦争の泥沼化によるアメリカの疲弊、ソ連の軍事力の増強などが挙げられる。
デタントの具体的な動き
デタントの具体的な動きとしては、以下のものが挙げられる。
- 戦略的兵器制限交渉(SALT): 米ソ両国は、核兵器の拡散を抑制するため、戦略的兵器の制限交渉を行った。SALT I(1972年)では、ABM(対弾道ミサイル)条約と、ICBM(大陸間弾道ミサイル)やSLBM(潜水艦発射弾道ミサイル)の制限に関する暫定協定が締結された。
- ヘルシンキ合意(1975年): ヨーロッパにおける安全保障と協力に関する会議(CSCE)の結果、ヘルシンキ合意が採択された。これは、ヨーロッパの現状維持を認め、人権尊重、経済・科学技術協力などを盛り込んだもので、東西陣営間の緊張緩和に貢献した。
- 米ソ首脳会談: ニクソン大統領とブレジネフ書記長は、1969年から1974年にかけて複数回の首脳会談を行い、相互理解を深めた。特に、1972年のニクソン訪ソは、デタントの象徴的な出来事として知られる。
- 貿易の拡大: 米ソ間の貿易が拡大し、経済的な相互依存関係が深まった。
デタントの終焉と影響
1979年のソ連のアフガニスタン侵攻を契機に、デタントは終焉を迎えた。アメリカは、ソ連を非難し、経済制裁を発動。冷戦構造は再び緊張を強めた。しかし、デタントの時代に築かれた対話の基盤や、軍縮交渉の経験は、その後の冷戦終結に向けた動きに貢献したと言える。また、デタントは、国際関係における緊張緩和の重要性を示唆し、その後の国際政治に大きな影響を与えた。