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ベルリン会議(べるりんかいぎ)

最終更新:2026/4/11

1878年にヨーロッパ列強がオスマン帝国とロシア・オーストリア=ハンガリー帝国間の紛争解決のため、ドイツのベルリンで開催した国際会議。

別名・同義語 ベルリン条約1878年ベルリン会議

ポイント

バルカン半島の勢力均衡を調整し、ロシアの勢力拡大を抑制することを目的とした。これにより、バルカン地域の複雑な民族問題を先送りすることになった。

ベルリン会議の背景

1877年から1878年にかけて、オスマン帝国とロシア帝国との間で露土戦争が勃発しました。ロシアは、スラヴ民族の解放を掲げ、バルカン半島における勢力拡大を目指しました。ロシアの勝利により、サン・ステファノ条約が締結され、ロシアの影響下にある広大なバルカン国家が成立する見込みとなりました。しかし、この条約は、イギリスやオーストリア=ハンガリー帝国にとって、ロシアの勢力拡大を許容するものであり、ヨーロッパの勢力均衡を脅かすと見なされました。

会議の開催と主要な決定事項

そのため、ドイツ宰相ビスマルクの仲介により、1878年6月から7月にかけてベルリン会議が開催されました。参加国は、イギリス、オーストリア=ハンガリー帝国、ドイツ、ロシア、フランス、イタリア、オスマン帝国でした。ビスマルクは、ヨーロッパの平和を維持するため、各国間の利害調整を図りました。

ベルリン会議では、サン・ステファノ条約の大幅な修正が行われました。ブルガリアは、独立を認められましたが、その領土は大幅に縮小されました。ボスニア・ヘルツェゴヴィナは、オーストリア=ハンガリー帝国の保護下におかれました。モンテネグロ、セルビア、ルーマニアは、独立を認められました。また、ロシアは、南ベッサラビアの一部を獲得しましたが、バルカン半島における影響力は制限されました。

ベルリン会議の影響

ベルリン会議の結果、バルカン半島の勢力均衡は一時的に保たれましたが、民族問題は根本的に解決されませんでした。むしろ、民族自決の原則が無視され、民族間の対立が深まりました。特に、ボスニア・ヘルツェゴヴィナのオーストリア=ハンガリー帝国による支配は、セルビアのナショナリズムを刺激し、第一次世界大戦の遠因の一つとなりました。また、ロシアは、ベルリン会議の結果に不満を抱き、ヨーロッパにおける孤立を深めました。この孤立は、ロシアが三国同盟(ドイツ、オーストリア=ハンガリー帝国、イタリア)に対抗する三国協商(フランス、ロシア、イギリス)を形成する一因となりました。

ベルリン会議は、19世紀後半のヨーロッパ外交における重要な転換点であり、20世紀のヨーロッパの歴史に大きな影響を与えました。

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